ネパールで考えたこと

あれは祖父が亡くなった時のことだ。

49日を終え納骨のため親戚一同がお墓に集まっていた。

皆が見守る中、本家の伯父が墓の扉を開けた。

わたしはその時初めて知ったのだ。

墓石の下にぽっかり空いた洞があることを、、、

そこにはいくつもの骨壷が納められていることを、、、

暗くて冷たくて何やら恐ろしげな空間だった。

死んだら骨になってあんなところに入るんや(涙目)

死んだらあかん、死ぬのは怖い、、、

あんな不気味で淋しく暗い場所に閉じ込められたら気が狂う、、、

当時小学校高学年だったわたしは、墓穴のせいで死を恐怖した。

だって墓穴の存在は

「それはなにかの罰ゲームですか!?」

と問いたくなるような空間ではないだろうか・・・

 

わたしが死んだら、後生だから墓穴に閉じ込めないでください。

どうか海に流すか土に返すか、風に乗せて自由に飛ばして下さい。

 

 

ネパールもインドもチベット

人の魂は果てしなく輪廻すると考えられている。

だからかの地に墓はない。

火葬のあと頭蓋骨の一部、本当に小さな一片のみを残し

残りの骨は灰と一緒に処分するそうだ。

小さな骨片は一定期間家に置き、あとはお寺に納骨する。

彼らが墓の大きさを競うことはない。

子孫が先祖供養の重圧に縛られることもない。

 

ボダナートでお葬式に遭遇した。

観光地の真ん中で、死者のための法要が行われているのだ。

不思議な光景であった。

 

遠慮がちに写真を数枚撮らせてもらった ⇓

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これがお葬式だとは、教えられなければ絶対に気付かなかっただろう。

 

この写真、よく見ると薄っすら白く丸いものがいくつも見える。

心霊写真などと言うつもりはない。

つもりはないが・・・でもこれは霊魂に違いないと思う。

白い影は他の写真には全くない。

しかもわたしのカメラだけではないのだ。

違う人が違うカメラ撮った写真にもはっきりと写っている。⇓

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霊魂かどうかなんて、まあ実はわたしはどっちでもいいのだが、

もしほんとうに霊魂だとしても

これは除霊だなんだと取りざたされるようなものではなく

あったりまえのこと、とわたしはスンナリ受け入れられる。

 

人が亡くなって49日の間を中有という。

この間に亡くなった人の霊魂は輪廻転生の行先を決めるのだ。

49日間はまだ娑婆世界の境界で迷っているのだ。

可視化するものなのかどうか…それは何とも言えないが、

葬儀の場所にいくつもの霊魂がいたとして何の不思議もない。

 

 

同じ仏教なのに日本とは随分勝手がちがう・・・

日本は中国の影響で、死者は祖先霊として祀られていく。

そうでなくても、日本はもともと古墳文化を有する国なので

死は穢れとされ忌み嫌われ、

それゆえに死者は畏れられ封印し、祀るという風土なのだ。

 

インド文化圏は仏教徒ヒンドゥー教徒

生を謳歌する風土であり、死者はすぐ生まれ変わるのだ。

なぜならまた何度でも生きたいから・・・

生きることは楽しいから・・・

 

日本では浄土教が盛んになり、

阿弥陀の浄土に生まれ変わり、そこで覚りを得られると説かれる。

覚りを得れば、生まれ変わりからは解放される。

もう二度と生まれ変わりたくはない・・・

なぜなら生きることは苦しみだから・・・

 

どちらも仏教であり、

なにが正しくなにが間違っているということではない。

言えるのは、真実はひとつではないということだ。

ひとつに拘泥する考え方、硬直した価値観は意味がない。

時代や場所によって正義も常識も変わる。

 

 

わたしは日本人だが、墓には入りたくない・・・

このささやかな希望がもし大きな摩擦となるなら我慢もするが、

できれば、どうかお願いである。

わたしを墓に閉じ込めないでください。

決して悪さはしないから、、、

庄川の河原にでもぱらぱらと撒いてくれないかなぁ。。。

 

あとは風まかせ~

 

 

ま、もう死んじゃってるから

お任せですけどね・・・

一応今の希望を言っておこうと思った(笑)